世界とのズレ→背骨(基準)欲しい→表現する(叫ぶ)でおk?

何か用語の定義が曖昧だから何とも言えないけど。
何か感じたのでダダダッと書いてみようと思った次第。


価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない - 発声練習


逆に言うと、表現者は判断基準が自分の中になくちゃいけない。
そうなんだと思う。
なぜなら「表現」する内容というのは「ズレ」や「そこから派生するもの」であって、何とのズレかというと、自分と世界とのズレに他ならないから。
世界とのズレがない人は自分の基準を疑わず、自我が揺るがない、ゆえに背骨も欲しない。


「背骨」とは何ぞや?
それは、自分の中の確固たる価値基準。
それは、揺るぎないものでなくてはならない。
世界と対峙したときに、世界が襲いかかってきたときに、それに逆らって立っていられるだけの強固さを持っていなければならない。


自分と世界との間にズレのある人が、背骨(確固たる価値基準)を欲する。
だって、つらいもん。
なんでつらいかって、世界に自分を否定されている気がするから。
だって「世界vs自分」だぜ?
そりゃ泣くよ。


でも、自分は自分だから。
それは否定できない。
だから、それを否定せずに、自分の中で確固たるものを築こうとするんだ。
世界に完全に負けてしまったら、もう自分は全否定され、その世界からいなくなってしまうから。

俺は表現っていうのは絶叫だと思っています。教えること、ぶっ壊すこと、表現するということ - G.A.W.


で、その過程で出てくるのがそういった叫びなんだと思うんだ。
表現するってことなのかな。


そうやって、自分の中に背骨を作っていくんだと思う。
きっと叫びは副産物。


背骨が必要な人は作ろうとすると思う。
でも、必要ない人は作ろうとしない。
だって、必要ないもの。
世界と自分はそこまでズレていないから。
で、そのままでいい。
どっちが良いとか悪いということじゃない。
きっと、それでいい。


まあ、これでおしまい。


おしまいなんだけど、↓の人の文章がおもしろかった。
だからまだちょっと書く。

あ、もうひとつ。俺は表現っていうのは絶叫だと思っています。この世界にいるだれとも共有されなかった魂の部分があげている悲鳴、それを表現と呼ぶのだと思います。毎度似たようなこと書いてますけど。背骨がないと表現者であることは「厳しい」ですが、しかし、不可能ではない。つーか芥川とか太宰とか、大正から昭和初期の文豪たちなんざ「俺たち背骨なくてつらいんですけど」っていうのがメインテーマだと思うんだけど。
教えること、ぶっ壊すこと、表現するということ - G.A.W.


きっと、背骨がないんです、と言ってる時点で背骨を欲してるわけだから、もう他者の評価基準で生きてる人間ではないんだよね。


「世界とズレを持って生きている」
かつ
「自分の基準についての確固たるもの(背骨)がない」
そうすると
「つらいよ、つらいよ」
だから
「叫ぶ」
ってことなんだと思うんだ。



要は背骨を欲するかどうか、表現者でありうるかどうかって「ズレがあるかどうか」そしてその「ズレを叫ぶかどうか」ってことなんだと思うんだけど。

で、いわゆる文豪って言われてる人たちって、むしろ「他者の評価基準で生きられなかった」ことによる苦痛が大きかったんじゃないかと思うんだよね(もちろん、文才とか何とかオプションもたくさんついてただろうけど)。

適応できてなくて、かつ、自分の不適応っぷりを認識してるってことなんですかね。

そりゃ叫ぶわ。

「TURREEEEEEEEEEEEEEEEE」って叫ぶわ。

「俺vs世界とかwwwwwねーよwwwwwww」って笑うわ。


というか、完全なる背骨ができてしまったら、もう叫ばないじゃん。

「つらいよつらいよ」って叫ばないじゃん。


あとあれだ、孤独であること、要は世界とのズレを認識していることも前提なのか。
だって、自分は孤独だって思ってないと
「わかってくれよ!ここにこういう人間がいるんだぜ!」
なんていって叫ばないからなぁ。
ズレが認識できるからこそつらいわけで。
だから、自分と世界の形というか位置というか基準というか何かを把握して、その間にどういうズレがあるかを認識してないとそもそも背骨なんて欲しない。
だから背骨を欲して「つらいよつらいよ」状態に陥る人間ってのは、自分をどういう形であれどの程度であれ認識している人間なんだよね、おそらく。


芸術家って変人が多いじゃない。
職業柄、変人を装ってる人もたくさんいるだろうけど、根暗ならず「根変」な人が他の○○家って肩書きの人よりも多いじゃない、たぶん。
芸術家ってのは表現することを生業とする人だろうから、表現することがある人なんだよ。
要は、ズレを持ってる人だよね。
そりゃ周りから見て「変人」であるのに相違ないですよ。
でもって、変なところで常識があるはず。
でないと、ズレを認識できないはずだから。
違う?


背骨を作る必要がないならそれでいいし、変人でないならそれになる必要ない。
それって、自分の中に価値判断の基準を作るほど、世界との間にズレがなかったってだけの話なんだと思うんだよね、僕は。
で、「ズレ=才能」とは思わないけど「ズレ→表現」ではあると思う。
だって、ズレてないと叫ばないし、叫ぶ必要も叫ぶべき言葉もないんだから。


世の中にはいろんな人がいておもしろい。
僕はそう思う。