便りのないのは、いい便り。あと、こぶ茶。


「便りのないのは、いい便り」
というのは本当なんだなあ、と思った、という話。
自分自身のことなんだけど(ここに何か書くのも5ヶ月ぶりだ…この間のを無視すると)。
「書くことがない」というのは僕にとっては、とっても平和なことなのだと。
そう思ったという話。


これでおしまい。
以下、こぶ茶について(ただの自分語り)。


自分は、もともと好きなこととか誰かと共有したいことがないような人間。
必要がない限り、知らない誰かに対してなんて何も言わなかったし、何も書かなかった。何もしなかった。
そういう人間にとって、知らない誰かに何らかの形で積極的に何かを発信しているときというのは、電話番号でいうと110や119のときだ。
生物としての危機のときか、人間としての危機のときだ。


そんでもって、たとえばこういう場所で発信するときというのは、もちろん後者であって、人間としての危機というのは、つまり、世界に押し潰されそうなときだった。
また前に書いた背骨の話なのだけど、僕はこうやってウェブ上に何か書いたものを公開することでではなく、繰り返し作品を作ることで、繰り返しステージに立つことで、そうやって叫ぶことで、危機を乗り越えようと、なんとかこの最強無敵のラスボス「世界」を相手に立ち続けていようとしていたんだ。
「世界」は僕にとって強大で、勝つことなんて永久にできなくて、そして何より、僕という存在を常に脅かし続ける恐怖の存在だった。
僕はこの世界では平均的な人間ではなく、ある軸で見れば外れ値であって、駆逐されるべき存在に思えた。


そうやってもがいていたある日、突然、叫ぶことをやめざるを得なくなった。
どうやって生きていったらいいかわからなくなった。
だって、叫ぶことで、世界からの圧力に対して立っていようともがくことで、僕は僕として生きてこられたんじゃないか…。
世界に押し潰されてしまう、自分が自分でなくなってしまう、この世界にいられなくなってしまう、外れ値は排除される運命にあるんだから。


いわゆるアイデンティティクライシス状態だったのだと思う。
で、特別に何をするでもなく、特に何が起こるでもなく、連休を過ごした。
なつかしい場所へ行っってみたり、講義でテンパな自称脳科学者の話を聞いたり。
人からもらった手紙を読み返したりもした気がする。
その間はずっと、いつもの胸に開いた空洞をキリキリと痛いほど感じていたんだと思う。


そうしているうちに、何がきっかけだったかわからないけれど、
「世界はこんなにも自分を愛していてくれたんだ」
という言葉が頭の中をぐーるぐると回り出した。
特定の出来事、思い出が、その言葉につながったわけじゃないと思う。
今までの記憶が、総体として、僕の見ている世界を、パチッとスイッチでも押したかのように変えてしまったような気がした。


自分がネガティブな思考に陥りやすい素因を持っていたから世界とのズレを感じたのか、それとも、世界とのズレを感じたから世界をネガティブなものとして捉えてしまっていたのか。
どちらなのかわからなかったし、どちらでもあるような気がしたし、今やどちらでもよかった。


そのうち、上に書いた言葉が
「世界はこんなにも自分を愛していてくれたのに」
に変わって、僕の意識を、自分の外へと押し出した。
僕はいろんな人にお礼を言わなくてはならなかったし、償いをしなければならなかった。
その始めとして、まずは心の中で世界にありがとうとごめんなさいを言った。


もちろん、世界さんという人間なんていない。
放っておいたら何もないこの世界に、僕が勝手に意味を見出しただけだ。
世界はただそこにあるだけで、むしろ誰かに見つけられるまでは、そこにすらないんだ。
僕の感じ方が変わっただけだ。価値基準が変わったわけじゃあない。


「それでもいいんだ」と、思えたんだと思う。
金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」じゃあないけれど。


そしてそれはこれからも繰り返していくことなんだろうと思う。
何度も、何度も、気づき直しては変わっていくんだと思う。


そういうことがあってから、他人とのズレを感じても、前よりもっとどうでもよくなった。
独りでいるときではなく、むしろ人と一緒にいるときの方が、寂しさを感じていたのに、その感覚はすっかりなくなった。


そして、そんなことより、僕にとって重要なのは「こぶ茶」なのだと。
「こぶ茶」が僕の人生の重要な一部を担ってくれているのだと。
そして、こぶ茶は、気の置けない人と飲むことで、より「こぶ茶」たり得るのだと。
いまはそう自信を持って声高らかに宣言しながら歩くことができるんだ。


こぶ茶の話は、全然ふざけているわけじゃなくて、僕にとっての幸せの象徴のようなものなのだ。
僕にとっては、とても意味のあるもの。
みんながそれぞれ僕にとってのこぶ茶を見つけられたらいいと思っている。
そんで、万が一、僕自身や僕の発した何かが、誰かのこぶ茶になれたとしたら、僕はそれだけで、その度に、おおげさじゃなく「生きててよかった」と思えるんだ。


以上、こぶ茶の話。

本気で記事を上げたら、自分が救われたという話

もしくは「自分の本当の思いを書く」ということへのモチベーションについて。


自分がなぜ、はてなダイアリーというサービスを使ってモノを書こうと思ったのかはまったく覚えてない。
たぶん、web上に残る形で、何かとても書きたいことがあった、そして、その「とても書きたいこと」が最初に書いた記事の内容で、いま見てみると「何これ?何が言いたいのかわからない…」なのだけれども、それがそのときの自分の本当だったんだと思う。


その最初の記事以降、書くモチベーションがまったく沸かなかったんだけれども、それでも「せっかくだから何か書いた方がいいかな」という、よくわからない義務感から
「食べ終わったアイスの棒にウシのマークがついていたら当たりで、集めたらいいことがあるらしい、ウシシ」
とかまったくもって自分の書きたいことではない無意味な文をごくたまに公開していた、一部は消したけど(これの1つ前の記事もまったく意味はない)。


それでも、最初の記事以降、一本だけ、本気で思ったことを(確か、深夜に、寝ることを忘れて)書いた記事があった。
久々にはてなにログインしたら「その記事」についている星が増えた気がして「どんな人がつけてくれたのかな」と思って辿ってみて、その人たちのダイアリーを覗いてみたりした。
で、ふと「その記事」に関連する単語が目に飛び込んできたから、反射的にリンクを踏んでみたら「その記事」が引用されていた。
引用されていたどころか、僕が結構前に書いた「その記事」は、「心から感謝と御礼を申し上げ」られていた。


られていたのは僕自身ではなく「その記事」であったから、僕は僕の書いた「その記事」に対してこの場を借りて最大限の「やったな!」を伝えたいと思う。
と同時に、僕は逆にその人に、下の方に書いてある理由により、お礼を言いたい。
言いたいだけじゃなくて、伝えたいので、気づいてねって意味で引用しておきたいと思います。

ズレと背骨と - のきにっき

伝わってるかどうかの確認って、ちなみにこういう場合は普通、どうすればいいんですかね。


で、引用してくれたその人は僕のスタンス(少なくとも、これまでのはてなダイアリー上での)とは違って自分の「本当」を書いている人だと思われ、そうであるがゆえに、僕の本気で思ったこと、それを言葉にしてまとめた記事に対してその人が書いた「泣きそうになり」「励まされ」「気持ちが楽にな」った、という言葉が、僕には感動的な響きを持って聞こえてきた。


こういうのって、普通のインターネットユーザーにとってはもしかしたら日常茶飯事なのかもしれないけど「web上をうろつき歩きはすれどほとんどROM専」な自分にとっては、ちょっとした奇跡だった。
僕はその記事を、自分の頭や胸の中を整理するためにも書いたけれども、「誰か」に向けても書いていたんだから。
そして、その誰かとは自分と同じ痛みを負ったことのある人、もしくは逆にその痛みがわからなくてやきもきしている人であり、僕はその誰かにプラスの影響を与えられたらと思って書いたんだから。


夢のないことを書くけれども、僕は、人が人のために何かコストを負ってまで何かをしたいと思うときというのは、実はその人にとって、そのコストを上回る利益がある(とその人が思っている)ときだと思っている。
たとえば「人のプラスになることをするのは、嬉しい!」とか、その逆に、将来のより大きなコスト回避として「ここで手を貸しておかなければ評判が落ちて後々厄介だ」とか、そういう感じ。


で、僕の場合はそれは往々にして「自分がやってきたことに対する罪悪感が薄れる(気がする)」とか、そういうことからだったりする。
そういう意味で、僕は、僕が書いた記事を通して相手にとってポジティブな影響があったことにより、また少し救われたのだった(自分の整理のために書いた、という不純物はありながらも)。
そしてそれは、僕が僕自身の言葉で、僕自身が切に思ったことを書いたから(でなければ、相手に影響を与えるものにはならなかっただろうし、自分としても本当の気持ちで書いたものでなかったとしたらあまり救われはしなかっただろうから)なのだった。
だから僕にとっては、ちょっとした奇跡が起こったような感じがした。


もちろん、自分にとっての「本当」を書くと、それが理解されないとき、伝わらないときには、それが本当のことであればあるほど、大きな痛みを受けることになる。
でも、ちょっとした奇跡を起こすことがたまにでもあるなら、痛みを受けるというコストはたいしたことなんてないと思えるのかもしれない、と思った。
アフィリエイトで稼いだりビジネスチャンスにつなげたりすることを目指してなさそうなのに、なんで時間を無駄にして毎日記事を書き上げる人がいるのだろう?
と思ったことがあるけれども、それは案外、そういうことなのかもしれなかった。


なんだか、まったくもって当たり前のことを書いているような気がする、というか、そんな気しかしてこないんだけれども、そういう風に、自分の本当に思っていることを書いたときに反応が返ってきやすい、返ってきたかどうかがわかりやすい、というのは、web上で何らかのアウトプットをするすべての人にとって、とても重要なことなんだと感じた。
自分が書いたものを見てくれる人がいたり、反応してくれる人がいたり、紹介してくれる人がいたり。
それらはすべて、書く人にとってのモチベーションとなるものだ。
はてなの提供するサービスって、そういう面で優秀なサービスなんでしょうか、そういうの知らずに使っている(と言えるほど使ってないけれども)んですが。


とりとめもない長文になってしまったけれども、要は、
本気で書いてよかった
と、ただそれだけを書いておきたかったんです。
ありがとうございました。

  • -

よかった、ちゃんと届いて、ちゃんと見届けてもらえた。
[2009-12-17 追記]

むかしむかし

あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。

おじいさんは山へしたがきに、おばあさんは川へせんたんきょうふしょうでした。

おばあさんは言いました。

「洗濯ばさみってとがっとるの?とがっとるの?はさみっていうからにはとがっとるの?」

そんなおばあさんを、桃は無視しました。

しばらくすると、亀がどんぶらこどんぶらこ、と流れてきました。

おばあさんは言いました。

「わしが落としたのは金の入れ歯じゃけえ」

亀は無視しました。

一方のおじいさんは、竹の中にちっこい姫が入っているかもしれないと思うと、おそろしくて竹にしたがきできません。

鉈を手に持ったまま、しばらく雛見沢に思いを馳せていたおじいさんは、あることに気づきました。

やっぱりやめました。

亀は言いました。

「おじいさん、私は月へ帰らなければなりません」

おじいさんは言いました。

「月ってなんで裏っかわを地球に向けたままなんじゃろか」

亀は言いました。

JAROに聞いたらどうじゃろ」

うさぎは言いました。

「おばあさん、私は餅つきはもうコリゴリです」

そんなとき、おばあさんは、きびだんごを喉にわざと詰まらせて、訴訟を起こそうと企んでいました。

そして亀は、うざぎがコリゴリしてる間にゴールしてしまいました。

月のうさぎは、実はカニでした。

今宵の月は、なんと、ヨーロッパ式だったのです。

餅つきをする必要がなくなってお役御免になり暇になった臼は、腹いせに、カニの背中にどしーんと一発かましました。

「この乱暴な臼め!お前は書き順がわからんのじゃ!」

いつの間にかダークサイドに堕ちていたおじいさんがそう言ったところ、亀が口をはさみました。

JAROに・・・」

「口をはさみ?!はさみ?!」

続く

世界とのズレ→背骨(基準)欲しい→表現する(叫ぶ)でおk?

何か用語の定義が曖昧だから何とも言えないけど。
何か感じたのでダダダッと書いてみようと思った次第。


価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない - 発声練習


逆に言うと、表現者は判断基準が自分の中になくちゃいけない。
そうなんだと思う。
なぜなら「表現」する内容というのは「ズレ」や「そこから派生するもの」であって、何とのズレかというと、自分と世界とのズレに他ならないから。
世界とのズレがない人は自分の基準を疑わず、自我が揺るがない、ゆえに背骨も欲しない。


「背骨」とは何ぞや?
それは、自分の中の確固たる価値基準。
それは、揺るぎないものでなくてはならない。
世界と対峙したときに、世界が襲いかかってきたときに、それに逆らって立っていられるだけの強固さを持っていなければならない。


自分と世界との間にズレのある人が、背骨(確固たる価値基準)を欲する。
だって、つらいもん。
なんでつらいかって、世界に自分を否定されている気がするから。
だって「世界vs自分」だぜ?
そりゃ泣くよ。


でも、自分は自分だから。
それは否定できない。
だから、それを否定せずに、自分の中で確固たるものを築こうとするんだ。
世界に完全に負けてしまったら、もう自分は全否定され、その世界からいなくなってしまうから。

俺は表現っていうのは絶叫だと思っています。教えること、ぶっ壊すこと、表現するということ - G.A.W.


で、その過程で出てくるのがそういった叫びなんだと思うんだ。
表現するってことなのかな。


そうやって、自分の中に背骨を作っていくんだと思う。
きっと叫びは副産物。


背骨が必要な人は作ろうとすると思う。
でも、必要ない人は作ろうとしない。
だって、必要ないもの。
世界と自分はそこまでズレていないから。
で、そのままでいい。
どっちが良いとか悪いということじゃない。
きっと、それでいい。


まあ、これでおしまい。


おしまいなんだけど、↓の人の文章がおもしろかった。
だからまだちょっと書く。

あ、もうひとつ。俺は表現っていうのは絶叫だと思っています。この世界にいるだれとも共有されなかった魂の部分があげている悲鳴、それを表現と呼ぶのだと思います。毎度似たようなこと書いてますけど。背骨がないと表現者であることは「厳しい」ですが、しかし、不可能ではない。つーか芥川とか太宰とか、大正から昭和初期の文豪たちなんざ「俺たち背骨なくてつらいんですけど」っていうのがメインテーマだと思うんだけど。
教えること、ぶっ壊すこと、表現するということ - G.A.W.


きっと、背骨がないんです、と言ってる時点で背骨を欲してるわけだから、もう他者の評価基準で生きてる人間ではないんだよね。


「世界とズレを持って生きている」
かつ
「自分の基準についての確固たるもの(背骨)がない」
そうすると
「つらいよ、つらいよ」
だから
「叫ぶ」
ってことなんだと思うんだ。



要は背骨を欲するかどうか、表現者でありうるかどうかって「ズレがあるかどうか」そしてその「ズレを叫ぶかどうか」ってことなんだと思うんだけど。

で、いわゆる文豪って言われてる人たちって、むしろ「他者の評価基準で生きられなかった」ことによる苦痛が大きかったんじゃないかと思うんだよね(もちろん、文才とか何とかオプションもたくさんついてただろうけど)。

適応できてなくて、かつ、自分の不適応っぷりを認識してるってことなんですかね。

そりゃ叫ぶわ。

「TURREEEEEEEEEEEEEEEEE」って叫ぶわ。

「俺vs世界とかwwwwwねーよwwwwwww」って笑うわ。


というか、完全なる背骨ができてしまったら、もう叫ばないじゃん。

「つらいよつらいよ」って叫ばないじゃん。


あとあれだ、孤独であること、要は世界とのズレを認識していることも前提なのか。
だって、自分は孤独だって思ってないと
「わかってくれよ!ここにこういう人間がいるんだぜ!」
なんていって叫ばないからなぁ。
ズレが認識できるからこそつらいわけで。
だから、自分と世界の形というか位置というか基準というか何かを把握して、その間にどういうズレがあるかを認識してないとそもそも背骨なんて欲しない。
だから背骨を欲して「つらいよつらいよ」状態に陥る人間ってのは、自分をどういう形であれどの程度であれ認識している人間なんだよね、おそらく。


芸術家って変人が多いじゃない。
職業柄、変人を装ってる人もたくさんいるだろうけど、根暗ならず「根変」な人が他の○○家って肩書きの人よりも多いじゃない、たぶん。
芸術家ってのは表現することを生業とする人だろうから、表現することがある人なんだよ。
要は、ズレを持ってる人だよね。
そりゃ周りから見て「変人」であるのに相違ないですよ。
でもって、変なところで常識があるはず。
でないと、ズレを認識できないはずだから。
違う?


背骨を作る必要がないならそれでいいし、変人でないならそれになる必要ない。
それって、自分の中に価値判断の基準を作るほど、世界との間にズレがなかったってだけの話なんだと思うんだよね、僕は。
で、「ズレ=才能」とは思わないけど「ズレ→表現」ではあると思う。
だって、ズレてないと叫ばないし、叫ぶ必要も叫ぶべき言葉もないんだから。


世の中にはいろんな人がいておもしろい。
僕はそう思う。

携帯電話の使用は脳腫瘍リスクと関係ありません

関係ありません。ご安心あれ。
ネットでの様子を見ていると気にしている人があまりにも多いので書きます。
正確には「直接関係あるとは言えない」だが。


とりあえずは安心してよい理由↓
1)データから結論までが飛躍している
2)仮にあったとしても微々たるもの


今回の素材は以下の記事

携帯電話の脳腫瘍リスクを調べる史上最大の調査、中間報告は最悪 : Gizmodo Japan(ギズモード・ジャパン), ガジェット情報満載ブログ
http://www.gizmodo.jp/2009/01/post_4847.html


結論は

携帯電話を使う人は使わない人より脳腫瘍ができる確率が50%も高い

らしいが。


(ちなみに、現時点では統計的に有意ではないようなので「50%高い」ということ自体もまだ言えません。※コメント欄参照
 あと、あえて極端な書き方をしましたが、自分はこういった疫学のデータそのものに否定的な意見を持っているわけではまったくありません。安易に解釈して不安を煽ることに問題があるという風に思っているということです)【追記(09-01-10)】

■ 1)データから結論までが飛躍している


詳細な調査方法までは把握できていないので結果自体適正なものかはなんとも言えないが・・・
仮にこの結果が信用できるものであったとしても、この結果から言えることは、


「携帯電話をよく使う人はそうでない人よりも脳腫瘍がある確率が50%高かった
ということだけであって、
「携帯電話をよく使う人はそうでない人よりも脳腫瘍ができる確率が50%も高い
ではない。
この違いは大きい。


「脳腫瘍ができる確率」と書くと「携帯電話の使用が脳腫瘍を引き起こす」という風に読み取れてしまう。
しかし、これは違う。
なぜなら、この調査は、メカニズムの解明を行ったものではないからだ。
「携帯電話の使用が直接的に脳腫瘍を引き起こす」という結論は「携帯電話使用時にさらされる電磁波が脳細胞にこのように作用して、結果、腫瘍となる」ということが言えないと、導き出せない。
たとえ調査が大規模で、著名な人物が調査を行っているとしても、そんなことは関係ないのだ。


これは擬似相関の可能性がある。

擬似相関とは、AとBの間に実際は因果関係がないのに、第三者であるCによってA→Bのような因果関係があるように見えること。
たとえば今回の場合は、携帯電話の使用が脳腫瘍を引き起こしているように見えてしまうが、実際は、生活習慣が悪い人がよく携帯電話を使い、生活習慣が悪いゆえに脳腫瘍リスクが高い、といった具合に、生活習慣という別の要因が計帯電話の使用の頻度も脳腫瘍リスクも上げている可能性がある、ということだ。
もちろん生活習慣の他にもいろいろ要因が考えられる。

■ 2)仮にあったとしても微々たるもの


まだ携帯電話の使用が脳腫瘍の直接的な原因になるというメカニズム解明はされていないが、仮に携帯電話の使用が原因で脳腫瘍になるとしよう。


そもそも脳腫瘍になる可能性が低かったとしたら、どうだろう。
脳腫瘍の発生頻度は毎年約100,000人に12人らしい。

【以下、追記】
数値が正確ではない可能性があるけど、とりあえず引用元を↓

脳腫瘍 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E8%85%AB%E7%98%8D

【以上、追記(09-01-09)】

約0.00012%だ。【訂正、←0.012%ですね…恥ずかしいミスをしたw】
仮に50%リスクが高いとしても、約0.00018%だ。【←同じく0.018%】


繰り返しになるが、仮に直接の原因だとしても
0.012% → 0.018%【←訂正後(09-01-10)】だ。
そして、1)で書いたように、直接の原因とは言えず、むしろ別の要因が絡んでいると考えた方が(個人的には)スッキリする。


携帯電話以外の要因が脳腫瘍リスクを上げる可能性を考慮したなら?
そしてその要因が脳腫瘍リスクを上げると同時に携帯電話の使用にも影響を与えるとしたら?


とか書いていたら、この(2)の視点で書かれているエントリがあったので参考までに。

タバコの方が大変だろ - ダイミテイ
http://d.hatena.ne.jp/hujikojp/20090106/danger_of_cellphone

■ 何となくのまとめ


擬似科学というのがメディアを通じて蔓延している現状があるが、擬似科学とは違い手法自体は科学的に適正でも、そのデータから言えることを大きく飛躍した結論が出され、あるいはメディアが曲解し、誤解を招くような情報が世間にばらまかれることもまた多い気がする。


情報化に伴って、情報リテラシーとは別に、科学リテラシーが一般人にも必要となったのかもしれない。

旅に出たい

何だか無性に旅に出たい。
というか、誰も自分を知っている人のいないところに行きたい。
そして現地のおじいさんおばあさんとともにお茶をすすりたい。
こぶ茶がいい。番茶ではいけない。こぶ茶がいい。


あと、探検したい。登山でもいい。
途中、山腹で、持参した小さい鍋とコンロで湯を沸かす。
そしてインスタントラーメンを茹でて、食べたい。
気の置けない人とふーふーしながら食べたい。


もっと時間があったら、オーロラが見たい。
いや、別にオーロラはそこまで見たいわけじゃない。
それよりも、ペタペタとイグルーを作って、中で眠ってみたい。
オーロラはついでに見られたらいい。


ガラパゴス諸島へ行きたい。
ゾウガメを見たい、乗りたい。
行く途中の船は小さめで、ゆっくり進むのがいい。
トランプをしながら、ゆっくり過ごしたい。


つまりは、気の置けない人とただボーっとしたいのだ。
そういうのこそが幸せな気がする。
自分の頭の中の小人たちにも少子高齢化が進んでいるのだろうか。
いや、やっぱり普通の、誰でも抱くような欲求な気もする。